99年2月  JEIDA駐在員・・・長谷川英一

米国におけるハードウェア・ベンダーのソリューション・ビジネス戦略(前半) -2-


(2)ソリューション産業の登場

 ソリューション業界の歴史はやっと30年を数えるにすぎない。多くのサービスやプロダクトと同様、ソリューション・ビジネスも基盤となるコンピュータ技術の発達に従って前進してきた。コンピューティング産業と密接に関わっているソリューション産業の起こりは、ハードウェア業界に起こった変化を引き金としている。

 コンピュータ業界が本質的に変容するきっかけとなったのは、1956年にIBMに対して行われた連邦政府の独禁法規制である。1950年代当時、事務機業界の頂点に君臨していたIBMは、電算システムに付加する形でプログラミングやデータ処理などのサービスを提供し、システムの価格とは別に料金を課すようになった。司法省は、このような業務が連邦法で規定する反競争行為にあたるとし、IBMがコンピュータ市場における優位性を利用してサービス市場も独占しようとしていると告発した。その結果、1956年に出された「同意審決(法廷での正式な審理を行う代わりに、政府が合意に応じることで下される決定)」において、IBMはコンピュータ・サービス部門を廃止するよう命じられた。同部門は、IBMの本来の業務であるハード製造、販売、設置の範囲を超えたサービスの実施にあたっていた。その後も、IBMが手がけるサービスには連邦政府による監視と規制が続いたが、1956年の同意審決が特に重要なのは、その中で、通常の機器販売に伴うサービスの枠をこえるサービスが、初めて一つの市場として認識されたからである。

サービス分野からIBMが締め出された結果、市場では、ソリューション・ビジネスを提供する中小規模の企業が発展することになった。これらの企業の多くは、EDS(Electronic Data Systems)やADP(Automatic Data Processing)といった、企業のデータ処理やカスタム・プログラミングを代行する独立事業者であった。他にも、CSC(Computer Science Corporation)やTRWのように連邦官公庁向けのプログラミングとカスタマイゼーションを請け負う事業者が現れ、この新しい市場の重要なプレイヤーとして発達していった。こうして、IBMがサービス部門を売却してから32年後の1988年には、コンピュータ・サービス業界のトップ5社は、10億ドルを超える年商と年率30%近い成長率を誇る勢力となっていた。表2は、左側に88年時点でのハードウェア・ベンダー保守契約収入トップ5、右側にサービス事業者ソリューション・ビジネス収入トップ5を掲げている。ここからもわかるように、88年には既にサービス事業者が古参ハードメーカーのメンテナンス収入に匹敵する売上を上げていたのである。

表2:保守・ソリューション収入(1988年)
ハード製造業者とソリューション事業者
保守・サービス収入トップ5
ハード製造業者 保守収入 ソリューション事業者 収入
IBM 73億ドル EDS 19億ドル
DEC 32億ドル ADP 16億ドル
ユニシス 19億ドル TRW 15億ドル
HP 17億ドル CSC 13億ドル
NCR 17億ドル DEC 11億ドル
出典:The Ledgeway Group


 ハードウェア事業者は、どこも製品とバンドルしたサービスの提供に特化していた。表の右側で、ソリューション収入の5傑に名を連ねているハードウェア・ベンダーは、DECただ1社である。このことからわかるのは、ハードウェア事業者が保守サービスから莫大な収入を上げていたにもかかわらず、ソリューション・ビジネスはほとんど手がけていなかったという事実である。80年代後半に、ハードウェア・ベンダーでありながら、システムの保守・コンフィギュレーションといった業務以外のサービスも提供していたDECは、例外的な存在だったのである。カスタマイゼーションやプログラミング、システム・インテグレーションといったサービスが新しい収入源になるという発想は、この頃まだ一般的ではなかったと言うことである.。


(3) ハードウェア・ビジネスからソリューション・ビジネスへの移行

 ハードウェア事業者は、製品から切り離したサービスだけを提供することに抵抗を感じ、ソリューション・ビジネスの開拓よりもハードウェアの販売やマーケティングの方がはるかに重要であると考えていた。それには2つの理由がある。第1に、ハードウェア・ベンダーは、保守契約だけで莫大な収益を確保することができた。80年代まで、コンピュータ製品は付帯するサービスとバンドル化してパッケージ販売することが可能だった。このバンドルサービスは、50%という驚異的なマージンをもたらしていたのである。第2に、やはり80年代後半まで、ハードウェア・ベンダーは自社独自の規格にユーザーを囲い込むことが許されていた。各社が発売するシステムは、当時ほとんどが他社製品との互換性を持たず、顧客は、プリンターなどの周辺機器も同一ベンダーから購入することを強いられていた。このため、ベンダーには労せずして顧客企業の全社的システム需要の独占が約束されていたのである。

 このようなハードウェア・ベンダーの姿勢が変化し、本格的なソリューション・ビジネス部門の設置に動き出すきっかけを作ったのは、業界に起こった2つの変化である。まず、ハードウェア製造ビジネスの利益率が低下し、各社は競争力維持のためソリューションに目を向けざるを得なくなった。そしてさらに、顧客企業の側からも、ITソリューションのサービスに対する要望が高まってきたため、ハードウェア・ベンダーもソリューションの重要性を真剣に認識し始めたのである。

 ハードウェア・ベンダーが製品とサービスの分離を図り、ソリューション・ビジネスへと進出していった89年から94年までの約5年間は、多くのベンダーにとって「暗黒の時代」とも言うべきものであった。米国経済全体が深刻な不況に見舞われていたこの時期、かつて驚異的な収益を上げていた中級・高級ハードウェアのベンダーは、ほとんどが減益ないしは赤字に転落した。これらのベンダーは、企業戦略に関わる次の3つの深刻な問題に直面していた。


1. 利益率の低下

 ハードウェア・ベンダーが製品とサービスのパッケージ販売から潤沢な収益を上げていた1950年代から80年代までとはうって代わって、この暗黒時代には、各社の利益マージンが極端に縮小した。技術の発達によって機器の信頼性が向上し、保守作業にかつてのような手間がかからなくなったうえ、製造プロセスの改善や人件費の安い外国メーカーの参入、製品規格の標準化などを背景に、ハードウェア製品の価格も急激に低下した。特に周辺機器に関しては、極端なコストダウン競争が起こり、米国ベンダーの利益率を押し下げた。こうした動きに対抗するため、米国企業は製造拠点の多くを海外に移転し、その結果、89年から94年までの間に、事務職、技術職、営業職を合わせて41,000人が職を失った。


2. 差別化の困難

 企業ITの分野において、ソフトウェアやネットワーク技術の重要性が高まる一方で、ハードウェアの有用性は、以前ほどベンダーの有力な武器ではなくなっていった。ハードウェアは、単にソフトウェアを運用するための道具となり、メモリ容量や処理速度の違いはあったものの、本格的な差別化は不可能になった。メーカーとの総合的保守契約を必要とする顧客の数も、機械の信頼性が向上するにつれて減少していき、ベンダーは顧客の囲い込みができなくなった。この時代には、かつてのようなハード技術の違いではなく、OSやバンドルされるアプリケーション・パッケージなどの要素によって企業の差別化が行われるようになったのである。


3. 技術変化の激しさ

 80年代中盤までのコンピュータシステムは、強力なマシンを中核とする中央集権的アーキテクチャーに従って構築されており、中・高級機が圧倒的な主流を占めていたが、PCの処理能力やネットワーク技術が発展すると、分散型のクライアント・サーバー・アーキテクチャーの人気が急速に高まった。しかし、ほとんどの大・中型機ベンダーはこのような変化を早くから見抜くことができず、時代遅れで互換性の低いハードウェアの販売に固執してしまった。

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