2002年5月  JEITA ニューヨーク駐在・・・荒田 良平

「IT不況下の米国IT業界のリストラに向けた取組み」


4.           ケース・スタディ(その3) 〜 インターナショナル・ビジネス・マシーンズ



(1)          会社プロフィール

IBMは、元々1911年にComputing-Tabulating-Recording社として設立された、世界最大のコンピュータ企業であり、マイクロソフトに次ぐソフトウェアメーカーであり、米国における最大の製造業者の一つである。IBMは、先進的なITを活用して顧客にソリューションを提供する。同社のハードウェア製品部門は技術、個人向けシステム及び企業向けシステムの3つから成り、その他の主要事業はグローバル・サービス部門、ソフトウェア部門、グローバル・ファイナンス部門及び事業投資部門から成る。

IBM2001会計年度における売上高は884億ドルであるが、同社は世界150以上の国で事業を行っており、米国以外でその総売上高の半分以上を得ている。

同社は米国で製造及び開発向けに4,030万平方フィートを所有又は賃借しており、他の15カ国合計で1,500万平方フィートを所有又は賃借している。

同社の海外も含めた従業員数は316,000人以上である。

 

(2)          景気後退に強いIBM

IBMは、2000年の第4四半期に、過去最高の売上高と1株当たり利益を計上した。2001年の同社の年次報告によると、これは過去数年間にわたって採用してきた戦略の結果もたらされた。

IBMも他の米国企業と同様、2001年の景気後退の影響を受けたが、IBMの顧客であるグローバルな大企業は、同社のサービスを引き続き利用した。さらに、同社は2001年の景気後退以前から事業再構築のための方針や戦略を実施していたため、他社よりも景気後退への準備ができていたのである。

米国が1991年に始まる好景気を享受する中で、IBMは財務的な苦境に陥っていた。1980年代半ばから後半には、同社の巨大な組織構造が変化の早いハイテク経済に対応できなくなっていることが明らかになっていた。同社は1991年に始めての損失28億ドルを計上し、 1996年までに大規模な事業再構築によって財務を健全化させた。

デルやHPITブーム終了後に大きなオーバーホールを行ったのとは対照的に、IBM1990年代中にオーバーホールを行い、その後数年間は単にそれを微調整したに過ぎない。

 

(3)          従業員との新しい関係

1990年代初頭、IBMは、40万人以上の従業員を有し、「終身雇用」政策をとり従業員を一度もレイオフしたことがないことで有名だった。しかし、同社は財務を安定させるため、1990年に条件の良い早期退職パッケージを導入した。

IBMは、退職する従業員に1年分までの手当てと1年分までの健康保険給付を支払い、新しい職を探す従業員にカウンセリングを行い、さらに職業再訓練のために一人当たり2,500ドルまで支払った。同社の従業員は、このような条件の良い退職パッケージが会社から提示されるのはこれが最後だろうと思っていたため、予想以上に多くの従業員がこのパッケージを受け入れたという。

1990年から1993年にかけて、IBMは早期退職パッケージによっておよそ10万人の従業員を削減した。こうした経費削減策によって、収益は1991年から1993年までの間でおよそ115億ドル減少したが、ダウンサイジングの結果、1992年だけで40億ドルの節約になった。

あるアナリストは言う。「従業員をレイオフしなければならないとしたら、それを自主退職の形で行うのは間違っている。自主退職が危険なのは、他で仕事を見つけることのできる優秀な従業員がやめ、優秀でない従業員が残ってしまうからだ。もし従業員が多過ぎ、多くの従業員が働いていないのであれば、働いていない従業員にやめてもらわなければならない。」

1990年から1993年初めのIBMの早期退職パッケージは、従業員一人あたりおよそ12万ドルかかった。ルー・ガースナーが19933月にIBMを引き継ぐと、彼は退職パッケージを最大26週間の手当てと最大6カ月の健康保険給付に縮小した。

IBMはまた、1993年に研究開発費を10億ドル削減し、重点をメインフレーム・コンピュータからより成長の速いソフトウェアとコンピュータ・サービスへと移した。また、株主配当も削減した。

1994年には、IBMはさらに35,000人の従業員を削減し、同社の従業員数は約225,000人になった。この雇用削減は、主に製造部門と海外事業部門で行われた。同社はまた、世界的なPC事業部門を再構築してノースカロライナ州のリサーチ・トライアングル・パークに集約した。1996年にも追加的な雇用削減が行われた。

IBM1996年にやっと財務を安定させた。残っている従業員へのインセンティブとして、同社はボーナスを平均8%増加させた。

1990年代後半の雇用の変化を踏まえ、IBM1999年に年金制度を変えた。伝統的な制度は、お金がかかるうえ、減る一方の長期雇用者に有利な制度であった。IBMによって採用された収支均衡型の新しい制度は、勤務年数ではなく給与に基づき年金支給額を決める制度であり、もはや愛社精神に報いるものではなく、より頻繁に職を変える従業員に好まれるものだった。IBMが収支均衡型制度を導入した当初、同社で長期間働いてきた年配の従業員に配慮する規定は設けられなかったため、彼らの年金額は2030%減少すると見込まれた。その後の闘争を経て、また組合化への脅威から、IBMは結局、勤続10年間以上の従業員に従来型と新しい収支均衡型の制度のどちらかを選択させることとした。伝えられるところによれば、収支均衡型の年金制度への変更によって年間2億ドルが節約された。

IBMは、1999年に年金制度の変更以外にも、福利厚生を削減し、一定割合の従業員の昇給を停止し、休日出勤の際の賃金割増を廃止し、また長期の派遣労働者の活用を増やした。

 

(4)          取引先との新しい関係、事業統合、及び周期的なレイオフ

IBMはまた1990年代に、顧客やサプライヤとの関係を急激に変え、事業戦略を変更し、事業部門を統合して、最終的には2001年の景気後退以前に従業員のレイオフを行った。

1993年から1995年にかけて、IBMは顧客からの懸念を踏まえ、顧客との関係を見直した。販売とマーケティングを地域割りではなく業種別にし、従業員をジェネラリストではなく業種別のエキスパートとして訓練するようにした。

IBMはまた1995年、サプライヤとの関係改善のため、倫理と事業行為、品質管理、電子商取引の能力、戦略的な関係構築、技術的リーダーシップなどサプライ・チェーン関連12項目に関する年2回の調査を開始した。1995年の調査では、多くのサプライヤがIBMをつきあいにくく、厄介な官僚的プロセスを持っていると思っていることがわかった。彼らは、調達担当の技術者、マネージャー及び幹部はスケジュール設定や技術的事項についてオープンに話し合いたがらず、「親密な関係を好まず、交渉のテーブルをはさんで以外はサプライヤと対話したがらない」という不満を持っていた。

そこでIBMは、契約のプロセスと文書を見直し、それまで4080ページあった契約書を46ページにした。同社はまた、サプライヤとの間で技術的ロードマップを再検討しIBMの製品計画に関する情報を共有するための技術センターを設立するとともに、サプライヤの不満を聞く部署も設置した。

1999年夏、IBMは記憶装置部門をメキシコ、ハンガリー及び日本に移管し、カリフォルニア州北部の従業員およそ1,100人を削減した。従業員の一部は成長の速いサービス事業など同社の他の部署に採用された。テープ・ドライブ組立部門など他の製造事業部門もより人件費の安い国に移管された。

社内で新しい職場に採用されなかった従業員には、勤続6カ月につき1週間分、最大26週間分までの手当てが支払われた。

また、IBM1999年に、大規模ユーザーに長期間の同一モデル供給を保障するPC Lifecycle Careと呼ばれるイニシアチブを発表し、一方で、デルを倣ってインターネットによるPCの直接販売を強化した。IBMは消費者向けPC部門を法人向けPC部門と統合しようとしていた。

この直販モデルの導入により、1999年秋に同社PC部門の主にマーケティング関連の従業員約1,000人が削減された。これは同部門の従業員1万人の10%に相当した。

この事業再構築の影響を被った従業員(管理職と一般従業員の両方を含んだ)は、数週間前に通告され、勤続6カ月につき1週間分の手当て、キャリア・カウンセリング及び6カ月の健康保険給付を受け取った。

199912月にIBMは、ミッドレンジのサーバーの販売不振から、サーバー部門の従業員2,000人を削減した。そのうち1,200人が北米のマーケティング担当であった。

2001年の最初の数カ月間に、IBMは高成長部門向けに1万人の新規採用を行った。しかし、同社は雇用を技能と必要性に見合ったものに維持した。

同社は20017月にはグローバル・サービス部門の従業員1,500人を削減したが、同社がウォール・ストリート・ジャーナルに語ったところによると、この削減は顧客の要求が変化したことに対応したものであり、事業不振が原因ではないという。

グローバル・サービス部門は、コンサルティングとアウトソーシングを担当する高成長部門で、およそ15万人の従業員を抱えており、そのおよそ半数が米国の従業員であった。上記の削減は米国内の様々な場所で行われ、従業員は30日以内に社内の他の部門で仕事を見つけることができなければ、手当てをもらって退職することになった。

しかし、IBMのスポークスマンによると、会社全体では引き続き採用を続けており、2001年末の全従業員数は年初を上回るという。

200111月下旬、IBMはマイクロプロセッサ業界の景気低迷により、全米7カ所のチップ製造開発工場で従業員1,000人を削減し、同社マイクロエレクトロニクス部門の従業員数を21,500人からおよそ2500人まで減少させる計画を発表した。

 

(5)          IBMのダウンサイジングの影響を受けた2つの町

IBMにおけるレイオフの影響を受けた地域は、それが米国経済全体は好調だった1990年代だったという点でまだ幸運だった。こうした地域は、景気後退が始まった2001年までには小規模なレイオフには対処できるようになっていた。

IBMのレイオフの影響を受けた町の一つが、インディアナポリスの西にある人口9,000人の町Greencastleだった。Greencastleは、日本企業や日米合弁企業など7社の新会社を誘致し、雇用創出で大きな成功を収めた。しかし、Wal-Martの流通センター、Fashion Bugの婦人服流通センター、塗装店や自動車販売会社といった新会社の給与はIBMよりも低く、町の職はIBMがいた時の2倍以上になったが、平均給与17,971ドルはIBMの平均給与の半分以下だった。IBMの従業員は皆、移転して会社に留まることもできたが、40代後半から50代半ばのマネージャーの中には、条件の良い早期退職パッケージを受け取って故郷に留まることを選んだ者もいた。

ミネソタ州Rochesterも、IBMのダウンサイジングによって深刻な影響を受けた。1993年から2001年にかけて、IBMRochester工場の従業員7,600人のおよそ30%を削減した。大規模な削減は1993年に行われ、700人のフルタイム従業員(製造工、エンジニア、管理者を含む)と1,200人の一時雇い労働者が削減された。フルタイムの従業員は含まれた生産労働者、 技術者、 およびマネージャーに影響した。フルタイム従業員には、1) カリフォルニア州に移転する; 2) Rochester工場で別の仕事を探す; 3) インセンティブを受け取って自主退職する; 4) レイオフされる; 4つの選択肢が与えられた。一時雇い労働者は、組立てラインでの生産、部品保管及び検査設備部門に移され、選択の余地はなかった。

自主退職のプログラムは、雇用削減の影響を受けない従業員が利用することもでき、これによって他のレイオフされた従業員がRochesterで仕事を見つける機会が増えた。

こうした選択肢があったにもかかわらず、特に最初の大規模な雇用削減が1993年に行われた時、従業員はうろたえた。「我々は、もうけが出ている限りは大丈夫だと言われ、それを信じてきた。それなのに、突然そのルールが変わったんだとつっけんどんに言われたんだ。」 Rochester工場の操業は数年間非常に安定していたので、事情を理解するのは難しかった。

しかし、ある従業員は言う。「会社も打つ手が無くなってきている。1年後には、IBMに残る望みもなく単にレイオフされるだけということになってしまいそうだ。」

Olmsted-Rochester Office of PlanningPhil Wheeler所長は、以下のような様々な理由から、地域経済がIBMのダウンサイジングによって受けた影響は緩和されたと言う。

1) 雇用削減は段階的に数ヶ月かけて行われ、レイオフされる人々は地域経済がそれに適応することができた。

2) 早期退職の大きな手当ては、IBMを去った人々の打撃をやわらげた。

3) IBMの従業員の7人に1人は他地域から通勤してくる人々だったため、波及効果が地域を超えて広がり、Rochester地域に集中しなかった。

4) Rochesterの女性人口の84%が働いており、夫婦の一方がIBMを去ってももう一方にはまだ仕事があった。

5) 結婚しているIBMの従業員が町を去れば、少なくとも1人分の仕事に空きができた。

 

おわりに

雇用は難しい。

昨今のIT不況下における日米の主要企業の対応を見ていると、もちろん各社とも事業再構築に向け必死の努力を行っているのだが、雇用調整のスピードの違いから、どうしても米国企業の方がより迅速にバブル清算を行っているように見えてしまう。しかし、日米では雇用システムや雇用環境、企業と投資家との関係など様々な点で相違があり、今回ケース・スタディで取り上げた各社が行ったやり方をそのまま日本に適用できるわけではない。

今回のIBMに関するケース・スタディからもわかるように、米国だって昔から雇用が流動化していたわけではなく、現在のような雇用システムは主に1980年代の大不況を経て出来上がってきたものであるし、また同じIT関連企業である3社を比べて見ても、雇用調整のやり方は少しずつ異なっている。

結局、雇用調整に「絶対」はなく、各企業がそれぞれの経営理念に照らし最適の方策を模索するしかないのであろう。米国企業だって、レイオフを繰り返せば従業員のモラルは低下し結局は自分の首を絞めることになるという状況の中で、試行錯誤しているのである。

最低限言えるのは、そうした各企業の苦渋の選択の結果としての雇用の流動化に対して、年金などの諸制度が阻害要因になってはならないということであろう。

既に読まれた方も多いと思う(まだであれば是非一読をお勧めする)が、エリヤフ・ゴールドラット博士著の「ザ・ゴール2」の最後の部分で、博士は企業の株主価値(=企業利益)、従業員価値(=雇用環境)、市場価値(=安価で優れた製品・サービスと企業倫理)を同時にすべて実現するためのアイデアの一端を披露している。

雇用調整の問題をはじめ各企業が直面している問題は、これら3つを同時にすべて実現することが現実的には至難の業であるが故の問題であろう。

そうした意味で、今回のケース・スタディで取り上げたデルは、従業員に大きな満足度を与えていることからすれば、これら3つを同時に実現している理想的な企業であると言えるのかもしれない。(毎年勤務評価で10%をレイオフするという徹底した実力主義には恐れ入るし、それでレイオフされてもなおチャンスがあれば再び同社で働きたいという従業員にも敬服する。)

しかし、見方を変えれば、デルの一人勝ちは米国のデスクトップPC製造の空洞化を加速させたわけであり、深刻な空洞化の懸念が強まる日本の置かれた現状を考えると、誰もがデルのような企業を目指せば良いという単純なことだけでは済まないだろう。

本当に雇用は難しい。

(了)



←戻る



| 駐在員報告INDEXホーム |

コラムに関するご意見・ご感想は Ryohei_Arata@jetro.go.jp までお寄せください。

J.I.F.に掲載のテキスト、グラフィック、写真の無断転用を禁じます。すべての著作権はJ.I.F..に帰属します。
Copyright 1998 J.I.F. All Rights Reserved.